超短編『犬石』

 古美術品の売買を生業にしている男が、ある立派な屋敷の主人に呼び立てられ、いくつかの古美術品を持参した時のこと。
 主人は老齢で、広い屋敷に妻と二人で住まっていた。庭も立派だったが、低い塀があるばかり。
 男は高価な品がたくさん蒐集された部屋を見回し、少し不用心ではないですかと老爺に尋ねた。


 老爺はそれには答えず、のんびりとした視線を庭へ向けている。
 うちの庭には、犬石がある。大きさは人の頭くらいで、いびつなじゃがいもみたいな形をしている。
 いま、ちょうど午後の日差しが斜めに交差しているあの辺りにある。そう、池のすぐ近くだ。
 犬石は、もちろん石であって、犬ではない。犬のような形をしているわけでもない。ましてや、吠えたり懐いたり散歩に行ったりもしない。石なんだから当たり前だ。
 つまり、名前のわりになんということもない、少しばかり大きな石ということになる。
 特に見栄えがするわけでもない。どちらかというと、この庭の景観を少々損なってさえいる。
 何故そんなものを置いておくのか、もちろん理由があるからだ。
 好きだから?それはあるかも知れない。到底嫌いにはなるまい。
 別の理由?その通り。別の理由だ。
 まあ、遠いところをはるばる来てくれたのだし、今晩は泊まって行きなさい。
 老爺はそれ以上は語らず、ただ呵呵と笑った。


 その晩も更けた頃、庭先からドボンと豪快な水音がした。
 慌てて飛び起き、庭へ出てみると、池に何者かが嵌まっている。
 引っ張り上げてみると、見ぬ顔である。何者かと問えば、答えない。
 しばらく押し問答をしているうちに盗人であると白状した。この池を泳いでいる錦鯉を盗みに来たのである。
 屋敷の主人がのんびりと庭へ出て来たので、この者は盗人だと告げれば、老爺はまた昼間のように呵呵と笑う。
 なに、この屋敷に忍び込む盗人は、必ず犬石に足をとられて池に落ちるのだ。
 何を盗みに来ても必ずそうなる。
 だからこの石は犬石であり、決して不用心ではないのだよ。
 男はしげしげと犬石を眺めてみたが、やはりなんということもない石にしか見えなかった。