短編『カエルと魔物と女の子』

申し合わせたように、ある日、僕がばらばらになって、四方八方へ散り散りになってしまったので、残された僕はなんだかひどくバランスを欠いた存在になり、何をしても中途半端。自分が薄い紙みたいに思えて、歩いているだけでとても不安だ。
ふらふらと心許なく歩いていると、道ばたにカブトムシが落ちていて、あまりに不安でいっぱいだった僕は、カブトムシに挨拶をする。
「こんにちは」
「こんにちは」と、カブトムシが返事をして、それで余計に不安になる。
ああ、でも失礼にならないようにそれでもなんとか「さようなら」と言って、カブトムシをやり過ごした。
カブトムシは気にもかけずに「さようなら」と言う。
本当にごめん。カブトムシはちっとも悪くない。
僕は一体、なんだって、こんな…。
思った言葉が口をついて出ると「そんなに気にするなよ」と慰めてくれる声が聞こえた。
見るとアマガエル。
僕はなんだか胸が痛くなってきて、せめてアマガエルに挨拶をしようと思うのに、出るのは掠れたため息ばかり。
アマガエルはまた、そんなに気にするなよと言う。
「それにしても、ずいぶん派手にやっちまったなあ」
アマガエルは、しみじみと僕を見上げて言う。
「そんなじゃ大変だろう」
僕は、自分を見る。外見には、特に変わったところはない。と、思う。
「まああ、おいらには分かるんだよ。水をくれたら、良いことを教えてやるよ」
僕は、アマガエルを掌に乗せて、公園の水飲み場に行くと、蛇口をひねってアマガエルに水をかけた。
アマガエルは気持ちよさそうに、しばらく目を細めて蛙の歌を歌っていたけれど、ああ、気持ちよかったと呟くと遠くのベンチを水かきのついた前足で示す。
「あそこのベンチに座っていると、あんたの一人がやってくるから、うまく丸め込んで元に戻すんだ。そうすりゃ今より少しはマシになると思うよ」
「ありがとう」僕は、言われた通りベンチに座った。
それから半時もせず、女の子が走ってきて僕の座っているベンチに腰掛けると、親しげな感じの笑顔を向けてくる。
「こんにちは」と挨拶をされたので、「こんにちは」と返事をする。
「なにをしてるの?」と問いかけてくるので、仕方なく「座っている」と答える。
「座っているだけ?」
「そう」と、僕が言うと、女の子はさらに「何かを見ていたり、何かを考えていたりしてなかった?」
「何も見ていないし、何も考えていなかった」僕が答えると、女の子はにっこり笑う。
「それはいいわね」
僕には、女の子が何についていいと言ったのか分からなかった。座っているだけなのがいいのか、何も見ていなかったのがいいのか、何も考えていなかったのがいいのか、あるいはその全部なのか、まったく別のことなのか。
僕は、少しの間そのことについて考えた。
「いま、何か考えた?」と、女の子が聞いてくる。
僕が「たぶん」と答えると、女の子は、持っていた鞄からノートと鉛筆を取り出して「はい」と僕に差し出した。
でも、そのノートを受け取ったのは、黒い人の形をした魔物だった。目と口だけがそれと分かるだけで、あとは真っ黒だ。
魔物はノートを見て、にやりと笑ったようだった。影のようにぐにゃりと歪んだだけかも知れないけれど、僕には判別できない。女の子は驚いた様子もなく、ただ「あら」と言って、ベンチのあいているところをなるべく多くしようと、僕の方につめただけだった。
魔物も何も言わずに、女の子がつめたところに音もなく座った。まるで、ベンチに影が落ちているように見える。
僕の手には、女の子に渡された鉛筆が一本。魔物の手には、女の子に渡されたノートが一冊。
女の子は「あそこで水浴びをしているアマガエルを描いてほしいの」と言う。
見ると、さっきのアマガエルがまだ水飲み場で水を浴びていた。
僕が、魔物にノートを渡してほしいと言うと、魔物は答えずに少し歪んだ。
僕は魔物の目を覗き見る。
「かなしい音がする」
魔物はそう言って、あっという間に分散してしまった。あとにはノートが残った。
僕はノートを拾って、アマガエルを描く。
アマガエルはずっと、蛙の歌を歌っている。
女の子も、僕の隣で蛙に合わせて歌っている。
女の子が両足を、ベンチの上でぶらぶらさせている。