短編『花めぐりの男』

 雲の流れは早い。その波に、月が浮き沈みしている。
 うっすらと明るくなり始めた空に、夜の残り香と目覚めそうな朝の気配とが不明確に混ざりあっている。
 真夏の早朝、朝顔さえまだ開いていない。
 気の早い蜩が、カナカナと鳴いている。
 花めぐりの男に出会ったのは、そんな朝だった。
 ふと思い立ち、古代蓮のある公園へ向かった。
 公園には、すでに人が集まっていた。カメラを持った人が多い。私の後からも、ひとり、またひとりと人が集まってくる。
 早朝に咲き、昼には閉じてしまうから、早起きをしなければ見られない花だ。
 おまけに沼地に根差す植物だから、湿気で空気はじっとりしている。蚊も多い。
 それでもなお、足を運びたくなる魅力がこの花にはある。
 水底の泥の中から凛と立ち上がる姿勢の良さや、日が昇るにつれゆっくりと花弁のほどけてゆく姿、開いた花の絢爛さに、天上を思い描いた先人の気持ちが分かる気がする。
 この古代蓮は、二日をかけて開いたり閉じたりを繰り返し、三日目に花開いたあとは、潔くあっさりと花弁を散らす。一枚たりとも残さない。
 大きな葉の上に、そうして落ちた花弁が乗っている。花のあとには実をつけて、やがてみな水の底へと沈んでゆく。次の季節に芽吹くまで、しばしの休眠となる。
 その休眠の時間が、千年を超えてしまったのが、この公園の蓮だった。
 環境が急激に変わってしまったのだろう。種は地中深く眠り続け、それから千年と数百年を経て呼び覚まされた。
 造成工事のために掘り返され、できた穴に雨水がたまり、ある日その水面に蓮が姿を見せた。
 調査の結果、千四百年間眠っていたものと推察されたこの古代蓮は、その年月すら、葉についた水滴のように軽快にはじいて、ずっと何事もなかったように花を開いている。

 公園の沼地は、遊歩道で囲まれている。カメラを持つ人々はそれぞれに気に入った花の傍らでシャッターを切っている。
 そんな中で、とりわけ本格的な機材を持った男がいた。人の少ない方、少ない方へと歩いて来たので、その一角には彼と私しかいない。
 歩き回っているうちに、花はすっかり見頃になっている。それなのに彼は、持っているカメラを構えもせず、柵に寄り掛かり、ただぼんやりと花を見ていた。
 私も、彼とやや距離を置いて同じように柵に寄り掛かり、花の方へ向き合う。
 空と、自分より背の高い蓮の一群ばかりが見える。他には何もない。
 しばらくそうしていると、カメラを持った男が満足そうなため息をつくのが聞こえた。
 私が、きれいですね、と声をかけると、男は存外愛想の良さそうな微笑を浮かべて頷く。その笑顔につい、写真を撮らないのかと訊ねると、ここの花はもうずいぶん撮ったのだと答える。
 男は花をめぐって、あちこち旅をしているのだという。
 蓮は案外、噂好きの花なんですよ、と男は笑った。
 花の声が聞こえるわけもないだろうに、と返すと、男は、僕の写真を見れば分かりますと嘯く。面白い男だ。
 連絡先を教えると、数日後に写真が届いた。蓮の他にも何枚か写真が入っている。

 花はみな新しく咲くけれど、根差した土の中に眠る長い時間の記憶を持っていて、花咲く度に噂話に興じている。特にこの蓮は。

 そんな手紙が添えられている。
 以来折々、手紙が届く。
 私の手元には、花をめぐる男の写真が増えてゆく。
 花は尽きない。