超短編『夕凪』

 夕凪の海辺には、大きなヤドカリが、どっしりと死んでいた。
 手のひらに余るほどの大きさで、生きているとばかり思ってつかみ上げたので、はっとして取り落としそうになった。
 なんとか落とさなかったのは、このヤドカリに畏敬の念を抱いたからだ。幾度、ヤドを替えてここまでの大きさになったのか。
 波打ち際へ、そっとヤドカリを戻す。
 寄せる波に力なく押され、引く波にも乗れず、そんな姿をしばらく眺める。
 鳶の鋭くも長閑な鳴き声を振り仰ぐ。藍色の空高く、風に乗った姿が見える。
 波に目を戻すと、先ほどのヤドカリがゆっくりと波間へ進んで行くところだった。
 天からは鳶の声。ここは彼岸であり、此岸である。行く波返す波、境界はありやなしや。
 まっすぐに鋭く急降下してきた鳶は、波間に消えかけたヤドカリをすくい上げ、暮れゆく山の稜線に見えなくなった。