超短編『インターフォン』

 オートロックもない古いマンションに住んでいます。
 古いけれど造りはしっかりとしていて、近隣の音はあまり気になりませんし、住み込みの管理人さんがきちんとした方なので、おかしなセールスや勧誘などはほとんど訪れません。ゴミ出しの管理や共用部の掃除も行き届いています。屋上はありますが、入り口は厳重に施錠されていて、外部から来た人はもちろん住人も屋上へ出ることはできません。
 先日のことです。インターフォンが唐突に鳴らなくなりました。インターフォンというより、ブザーと呼んだ方がふさわしいような古いものです。修理屋を呼ぶと、古いものなのでこの際新しくカメラつきのものに交換してはどうかと言われました。確かにカメラがついている方が安心です。値段もそう高くなかったので、思い切って交換してもらうことにしました。小一時間ほどで、あっという間に新しいインターフォンが取り付けられました。モニターは、居間の入り口と棚の間の壁に設置してもらいました。これで玄関の前に立っている来客の姿を確認して、すぐに玄関へ向かうことが出来ます。
 その晩、もう午前零時を回っていたと思います。棚のものを取った拍子に手がぶつかって、モニターの通話ボタンを押してしまいました。マンションの廊下がモニターに映り、風の音ともつかない外の雑音をマイクが拾っています。当然、誰も訊ねて来ていないので玄関の前は無人です。
 しばらく放っておけば自然とモニターは解除されるのですが、もう一度通話ボタンを押しても解除できるので、すぐに通話ボタンを押しました。
 その時、向かいの住居のドアの前に誰かが立っているのが見えました。向かいと言っても、それなりに離れているのでインターフォンのモニターでは薄暗く見えます。お向かいさんに来客かとぼんやり思ったのですが、向かいには気のいい老夫婦が住んでいるばかりでこんな夜中に来客があるのだろうかと、不躾とは思いましたが、再度モニターの通話ボタンを押しました。
 目を凝らして向かいの玄関先を見ようとして、はっと息を飲みました。
 モニターいっぱいに、俯き加減の人影が映し出されていたのです。カメラを覆うように立っているのか、顔が良く見えません。
 もしかして、酔って帰って来て自分の住居が分からない住人かも知れない、と思い至った時、マイクが音を拾いました。
『お湯を……沸かして下さい』
 具合でも悪いのか、聞き取りにくい掠れてくぐもった声です。咄嗟に玄関へ走って行って、ドアを開けました。
 ところが玄関の前はもとより、廊下には誰の姿もありませんでした。
 気味が悪くなって慌ててドアを閉めて施錠し、居間へ戻って来ると、ちょうどモニターが解除される瞬間でした。
『お湯を……』
 そんな音を残して、モニターは暗くなりました。
 それ以来、間違って通話ボタンを押さないように気をつけています。