超短編『網棚の上』
乗り込んだ車両のドアの近くに、奇妙にねじれたまま立っている、全身が黒っぽい人がいた。
電車の中はすでに満員。なるべく離れたところに立って、あまり見ないようにしていたら、あれよあれよと網棚によじ上り動かなくなってしまった。
ドアが開いて人が乗り降りすると、人の波に押されてその網棚のすぐ近くに移動したまま身動きが取れなくなってしまった。
目のやりどころに困って窓の外ばかりを見つめていたものの、頭上には、ねじれた人がいる。
電車が急ブレーキをかけて止まった。
車内放送では、緊急停止ボタンが使われたため、停車しました。などと言っている。
今の衝撃で窓の方から車内の方へ体の向きが反転してしまった。
網棚の上のねじれた人は、大きな口を開け目を見開いている。口の中は真っ黒で、目はどこを見ているのか判然としない。
とても直視できた表情ではない。
そう思って目をそらしかけた瞬間、隣に立っていた男が、持っていた大きなリュックを網棚に放り投げるように載せた。
普段なら眉をひそめるような荒々しい行動だが、ねじれた人は悲鳴も上げず驚く暇もなく、灰のように、ばふっと拡散してそれきりだった。
一行超短編
金魚鉢に入れた金魚から「面白い顔の人」と言われたので、金魚の住処を水槽に変えた。
超短編『叩く』
夕べから、背後でずっと誰かが話し合っているような声と覚しきものが聞こえるのだ。などと、半澤が云う。
なんと云っているのだと尋ねるが、何を云っているのかよくわからぬと云う。
昨夜、百物語なぞするからだと因幡がからかうが、半澤はしきりと背後を気にしている。
その日の夕刻、また半澤に会ったので、まだ聞こえるのかと問うたら聞こえると答える。
幾分かやつれたようにも見え不憫である。元気づけてやろうと背中をバシリバシリと叩いてやった。
百物語なぞしないで早く床へ入って寝てしまえば善い。ろくに寝ないでいるから妙なものを覚えるのだ。そう云ってやった。
すると翌日、半澤に伴われた数人が、俺の背も叩いてくれ、我も我もとやって来たのには辟易した。
『日野善 日常覚え書き』より
超短編『白い布』
暗い空からまっすぐに、白い布のようなものが落ちてきて目の前の地面にぶつかろうかというところでぴたりと静止した。
かと思えば今度はまたまっすぐに空へ上がってゆき、しまいに見えなくなった。
随分見ていたように思ったが、道の向こう、提灯を提げて歩いてきた人がまだ大分遠くにいるので、わずかな時間のことだったのだろう。
すれ違い様、挨拶をしたが、何も怪しむ様子がないので、見たのは自分ひとりであったようだ。
『日野善 日常覚え書き』より
超短編『コタツと蜜柑』
住宅街を歩いている。
寒さと、漠然とした不安に苛まれながら歩いている。
重くたれ込めた雲のせいで薄暗い空を、自分ひとりが背負っているような気になって歩いている。
ふと角を曲がり、妙に長い廊下のアパートの前を通りかかる。
アパートの廊下には猫がいて、誘い込まれるように、アパートの廊下に足を踏み入れる。
廊下を真ん中あたりまで進んだところで、突然建物が舞台のセットのようにスパリと割れて、部屋の中が縦割りに良く見えるようになる。
部屋の中には、コタツに入って山盛りの蜜柑のひとつを、今まさに剥き終えて口へ入れようとしている人物がいる。
突然の、あまりに理解を超えた出来事に呆気にとられて立ち尽くしていると、コタツの中の人物が手招きをしている。
親切なその人は、コタツに入るように勧めてくれ、蜜柑を手渡してくる。
呼ばれるまま靴を脱いで素直にコタツに入り、蜜柑を剥き始めたところでふと気がつくと、縦割りになっていたはずのアパートは元通りになっている。
コタツは暖かく、蜜柑は甘酸っぱい。
薄暗い空も、今は見えない。
超短編『幸運の女神』
帆船の後を海鳥が追っている。波は穏やかで、伸びやかな風が帆を煽る。
甲板の片隅には、のんびりと欠伸をしながら釣りをする男が見える。
その脇を、屈強な男たちが数人、通り過ぎる。みな、帆を点検したりロープの張り具合を確かめたりと忙しい。
滑るように進む船の舳先には、小柄な乙女が腰掛けている。時折、海鳥に手を振って、あとはじっと船の行く先を見つめている。
白く柔らかで軽そうなドレスは、海風にも、こそりともなびかない。
腰に届きそうなほど長く美しい黒髪も同様だ。
すれ違う船に乗った人々は彼女を見ると笑顔になり、こちらの船へ来ないかと誘うが、彼女は見向きもしない。
彼女の乗る船は、海を走るどの船より海に愛され、そしていかなる嵐や災厄も船を避け、決して沈むことなく安全に航海できると言われている。
しかしまた、海を走るどの船よりも船を愛し、海に出ることを愛する者が乗る船でなければ、彼女が乗り込むことはないとも言われている。
すれ違う船は、誰がその幸運な船長なのかと探しながら通り過ぎる。
しかし誰も、甲板の隅で、餌だけ取られた!と叫んでいるのがそれとは気づかない。